暇と退屈の倫理学を読みました。
本の概要や感想などを自分の備忘録として書きました。
何をすれば良いかわからない人、生き方に悩んでいる人、役割が欲しい人、FIREを目指している人などの参考になれば幸いです。
目次
動機
私が本書を読もうと思ったきっかけは、たまたま見ていたYoutubeでおすすめされて、タイトルに惹かれたため。
私が本書を読みたいと思った主な動機は次の内容。
- これからの人生で時間があり余ったら、暇や退屈とどのように向き合うべきなのか知りたい。
- 会社の仕事に多くの時間を使ってきたので、価値観が生産性とか価値提供とかに寄っているため、別の価値観を作りたい。
- 暇や退屈を使って人間が何を求めているかを知ることで、ものづくりにも役に立ちそう。
- (後で知ったが)東大で一番読まれているらしい。
本の概要
本書は、哲学者や科学者の文献や映画を例に、暇と退屈について解説している。
非常に丁寧に解説しているので、哲学者や映画などの前提知識はなくても問題ない。
本書は、7章あり3部構成になっている。
- 暇と退屈がいかなる問題を構成しているか(第一章)
- 歴史的な見地から暇と退屈の問題を扱う(第二章〜第四章)
- 哲学的に暇と退屈の問題を扱う(第五章〜第七章)
國分功一郎(こくぶんこういちろう)・・・本書の著者。日本の哲学者。東京大学大学院総合文化研究科教授。
以下、3部構成を要約。(かなり説明を省いているので、分かりに難い箇所や不足している箇所など多いと思うが、少しでも参考になれば嬉しい。)
暇と退屈がいかなる問題を構成しているか(第一章)
パスカルは「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしてられないがために起こる」と言っている。
つまり、人間は退屈に耐えられない、そして退屈が不幸を作る。
人間は、退屈になることで、苦しみをもとめる。(ウサギを狩りに行ったり、ギャンブルをしたり、逃避で勉強や仕事をしたり、テロリストになったり、退屈で居続けることはそれ以上に苦しい)
退屈の対義語は楽ではなく、興奮である。
人は退屈ゆえに興奮を求めてしまう。
幸福な人は、楽しみ・快楽を既に得ている人ではなくて、楽しみ・快楽をもとめることができる人である。
歴史的な見地から暇と退屈の問題を扱う(第二章〜第四章)
2章、退屈はいつどうやって発生したのか、退屈の起源はどこにあるのか
約1万年前、人類が遊動生活から定住生活へ変わった。
定住生活によって暇と退屈が発生した。
人類は、定住によって退屈を回避する必要に迫られるようになった。
3章、人類がどう暇と退屈に向き合っていったのか
退屈とは、何かをしたいのにできないという感情や気分を指している。(主観)
暇とは、何もすることのない、する必要のない時間を指している。(客観)
暇であるとは、余裕があるということ。余裕があるとは、裕福であるということ。
古い有閑階級(暇であることを許された階級、貴族など)は、暇を生きる術を知っていた。
彼らは品位あふれる仕方で、暇な時間を生きることができた。
20世紀、大衆も暇を手にするが暇を生きる術を知らない。
そこへ、レジャー産業は人々の欲望そのものを作り出す。
ガルブレイスは「19世紀のはじめには、自分の欲しいものが何であるかを広告やに教えてもらう必要のあるひとはいなかったであろう」と言う。(19世紀初頭には自分の欲望は広告屋に教えてもらわなければ分からなくなった)
消費者は、モデルチェンジしなければモノを買わないようになった。(チャンジしているかではなく、チェンジしたという情報そのものを消費する)
4章、消費社会と退屈の関係についての考察
浪費とは、必要を超えて物を受け取ること、吸収することである。(贅沢)
消費とは、限界がない。人は、物ではなく物に付与された観念や意味を消費する。
消費社会では、退屈と消費が相互依存し、物を記号に仕立て上げ、消費者が消費し続けるように仕向ける。
消費者は「個性的」(オンリーワン)でなければならないという強迫観念を抱く。
しかし「個性」がいったい何なのか誰にもわからない。
そのため、人が満足に到達することがない。
もはや、労働や余暇も消費の対象となる。
現代の消費社会によって引き起こされる退屈の姿は疎外である。
「疎外」という言葉は、本来性や<本来的なもの>を思い起こさせる可能性がある。
<本来的なもの>は大変危険なイメージである。
なぜなら、本来とは強制的でそこから外れる人は排除されるからだ。
ルソーとマルクスは本来性を想定することなく、疎外からの脱却を目指した。
ルソーは文明人の惨めさを嘆き、自然人という純粋に理論的な像を作り出すことで、人間の本性に接近し、そこから文明人をよりよく導くための教育法(エミール)や政治理論(社会契約論)を考えた。
マルクスは疎外された労働を批判しつつ、本来的な労働を措定することなく、労働日の短縮にもとづいた「自由の王国」を考えた。
哲学的に暇と退屈の問題を扱う(第五章〜第七章)
5章、マルティン・ハイデッガーの退屈論「形而上学の根本書概念」(決断によって人間の可能性である自由を発揮せよ)
ハイデッガーの2つの退屈の形式。
退屈の第一形式:何かによって退屈させられること。(何もすることがない電車の待ち時間など)
退屈の第二形式:何かに際して退屈すること。(楽しいパーティでいつのまにか退屈しているなど)
暇がある | 暇がない | |
---|---|---|
退屈している | 退屈の第一形式 | 退屈の第二形式 |
退屈していない | 暇を楽しそうに過ごしている人(有閑階級など) | 忙しく働く、充実した生活を送っている人 |
・退屈の第一形式
物が言うことを聴いてくれない状態。
そのため、私たちは<空虚放置>され、そこにぐずつく時間による<引き止め>が発生する。
(空虚放置・・・むなしい状態に放って置かれること)
(引き止め・・・時間がのろく、ぐづいている)
第一形式は、大きな自己喪失である。(時間を失いたくないと思っている。約束や仕事の締め切りに強く縛り付けられ、焦ってしまう。)
・退屈の第二形式
<空虚放置>は、外界が空虚であるのではなく、自分が空虚になる。
<引き止め>は放任しても、放免しない。(時間は私たちを放任しているが、放免していない。)
退屈の第二形式こそ、私たちが普段もっともよく経験する退屈。
必要だと思ってやっていることさえ、もしかしたら気晴らしかもしれない。(受験勉強、額に汗してあくせく働くこと、など。)
第二形式は、「安定」と「正気」がある。(時間に追い立てられていない。自分に向き合うだけの余裕もある。)
・退屈の第三形式 「なんとなく退屈だ」
第二形式よりも「深い」最高深度の退屈。(仕事の奴隷になったり、退屈と混じり合った気晴らしにふけったりしていもこの声が響いてくる。)
気晴らしはもはや許されない。
あらゆる可能性を拒絶されているが故に、自らが有する可能性に目を向けるよう仕向けられている。
退屈の第三形式が告げ知らせていたのは、私たちは「自由」であるということ。
退屈する人間には「自由」があるのだから、「決断」によってその「自由」を発揮せよ。
6章、人間と動物の世界
ダニは純粋に3つのシグナルだけでつくられた世界を生きている。
あらゆる生物はそれぞれの環世界で生きている。
(環世界(Umwelt)・・・人間の頭のなかで、抽象的に作り上げられた客観的な「世界」なるものではなく、それぞれの生物が一個の主体として経験している具体的な世界)
あらゆる生物には環世界の間を移動する能力がある。
人間は他の動物とは比較にならないほど容易に環世界の間を移動できる、それ故に退屈する。
7章、暇と退屈の現実的で望ましい解決策
第三形式と第一形式は最終的に区別できない。(退屈から決断したという点は同じ。)
人間にとって、生き延び、成長していくことは、安定した環世界を獲得する過程として考えることができる。
私たちはたえまなく習慣を更新しながら、束の間の平穏を得る。
生物にとって、快とは興奮量の減少であり、不快とは興奮量の増大である。
しかし、快の状態は退屈という不快を生み出す。(ここに矛盾がある。快を求めて退屈で不快になる。)
人間には、<動物になること>の可能性がある。(退屈の不快を取り払える。)
(動物になること・・・衝動によって<とりさらわれ>て、一つの環世界にひたっていること。)
(とりさらわれ・・・何かの衝動によって駆り立てられるということ。)
しかし、人間は再び人間的な生へと戻っていかざるを得ない。
だが、ここにこそ人間的自由の本質があるのだとしたら、ささやかな希望である。
哲学者抜粋
本書で取り扱われた重要だと感じた哲学者や科学者の抜粋。(本書で30人以上の哲学者や科学者の考えが引用されている。)
- バートランド・ラッセル
- 幸福論
- ブレーズ・パスカル
- 退屈についての最初の偉大な理論家
- ラース・スヴェンセン
- 退屈の小さな哲学
- マルティン・ハイデッガー
- ボードリヤール
- 浪費と消費の区別
- ジャン=ジャック・ルソー
- 自然状態
- G・W・F・ヘーゲル
- 疎外を肯定
- カール・マルクス
- 疎外を否定
- ヤーコブ・フォン・ユクスキュル
- 環世界
感想
感想を一言で言うと、暇と退屈の地位が上がるような本だと思った。
暇や退屈は、本書を読む前は些細な関心事だったが、本書を読んだ後では生き方に直結するほど重要な関心事だと思えてくる。
本自体は、とても読みやすくて面白い。
また、面白さだけでなく、考えさせられるような強いテーマとメッセージ性を感じられた。
ただ、脇道にそれる時があるので、結局何の話しをしていたっけ?これの結論って語られていたっけ?と把握できなくなる時が少しあった。(単調さの回避など面白さを向上させるための施策だと思うので大した問題ではない。)
間違いなく名著であり、このブログだけでは本書の魅力は語りきれないのでぜひ読んで欲しい。
・読みやすさについて
文章の順序立てや各章の分類分けなど構成がしっかりしている。
章内のトピックが小さくまとまっている。
例文などを使った丁寧な説明がある。
章の終わりにまとめがある。
哲学者や科学者の名前が多く引用されており、引用元がわかるため信頼できる。 (丁寧な解説があるので、人物の前提知識は持っていなくて問題ない)
・面白かった箇所
意識高い系への皮肉や巨匠と言われるような哲学者をばっさりと批判していて爽快。
人間は豊かになっても負荷や苦しみを求めるという考えが面白かった。(苦痛を求めるだけでなく、奴隷になることすら求める。)
ファイト・クラブを例にした消費社会がわかりやすくて面白かった。(消費社会で合理的に生きている人を痛烈に批判するのも小気味よい。)
20代の頃に悩んでいたことなどが題材になっていて自分ごととして読めた。(自分の命を賭けてまでも達成したいと思える重大な使命に身を投じたい、「個性的」(オンリーワン)でなければならないという(何者かにならないといけない)、など)
・気になった箇所
有閑階級の「品位あふれる仕方での暇な時間の使い方」が本書に記載されていなかったので、具体的にどのように暇を使っていたのか気になった。
・感じたこと
暇や退屈を知ることで、某インタビューニキの名言がそもそもお門違いな指摘に思えてきた。
「ゲームっていうのは暇つぶしのためにあるのであって、その暇つぶしにお金をかけているようじゃこの先心配」
そもそも資本は余暇に変換する運命で、その対象が何であるかなんて些細な関心事に過ぎない。(あなたは暇の正しい使い方を知っているような口ぶりだが、そもそも消費社会に作られた価値観に同じように狂気しているだけだと思い知れ。投資先がゲーム会社が作ったモノか、社会が作ったモノかの違いにすぎない。)
芸術家や事業の成功者など大きな成果を上げている人は、環世界移動能力が低く<動物になること>ができる人な気もした。
というか、資本主義が環世界移動能力が低いことを歓迎しているようにすら思えた。
あの人は今「退屈の第一形式」になったな、だから些細なことで怒ったり急いだりしている、とか思って人を見ると客観的になれて余裕ができそう。
私が本を読むのは、知らない環世界を体験したい、素晴らしい世界ならそこに住みたいと思うからなのかも知れない。